MY NAME IS DREAMER
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ハロウィンネタの自分用メモ
教会暦では、冬は十一月一日と二日の万聖節と万霊節にはじまる。万
聖節*は殉教者の祭りとして教皇グレゴリウス四世によって紀元八三五年
と決められ(……)
この日は、いわゆる死者の日であり、教会をはじめ、村や町の全ての
墓地にはローソクの火がともされる。紀元は古く、ローマ時代の幽鬼祭
にはじまったと伝えられる。(……) またケルト人の暦では、十一月一日
は新年に当たり、その前後、死者の霊をとむらうために、サムインとい
う平和の火が焚かれた。その習慣はハローウィーンとしてスコットラン
ドに今も伝えられ、後にアメリカに渡り盛大な子供の行事となった。
* 原文注: この日には日本のお盆と同じようにローソクに火がともされ、
祖霊を迎え、まつり、そして送る。云々。
遠藤紀勝『仮面―ヨーロッパの祭りと年中行事―』現代教養文庫, 1990年。
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もともとはケルト民族の祭り。ハロウィーンは英語読みで、ケルトの言葉ではサムハイン、サムインといった。名前の意味は「夏の終わり」。キリスト教では諸聖人の祝日の前夜(10月31日)の祭り(万聖節)。「Allhallow-even」(1556年の記述)、「Hallowmas "All-saints"」(1389年の記述)などがみえるようだ。
ケルトの暦では11月1日が新年であり、その前の10月31日、またはその前後に行われていた。死者を迎える火の祭り。死者の霊が帰ってくる時で、ごちそうなど用意してもてなし災いがふりかからないようにするのだという。死者が帰ってくる目印としてローソクに火をともした灯りを用意した。
また、死者の霊や魔女、悪霊たちが帰ってきてうろつき回り、悪さをする恐ろしい日。空が箒の柄にのった魔女でいっぱいになるという。
起源は古く、ローマ時代の幽鬼祭にはじまったという。現在でもスコットランドで伝統が受け継がれ、それがアメリカにも伝わり子供の行事となった。カボチャの提灯などを飾り、仮装した子供達が近所の家々を訪れ「Trick or Treat!」(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!)と言って、お菓子をもらう。(Treatは「扱う、遇する」の意で、「かまってくれなきゃ…」がこの場合は「お菓子をもらう」ことに)
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万聖節はローマの収穫祭(幽鬼祭)に始まったと伝えられる。降誕祭、聖母昇天祭(8月15日)とともにカトリックの三大祝日のひとつで、信徒はこの祝日のミサには何をおいても出席しなければならないとされた。
聖節*は殉教者の祭りとして教皇グレゴリウス四世によって紀元八三五年
と決められ(……)
この日は、いわゆる死者の日であり、教会をはじめ、村や町の全ての
墓地にはローソクの火がともされる。紀元は古く、ローマ時代の幽鬼祭
にはじまったと伝えられる。(……) またケルト人の暦では、十一月一日
は新年に当たり、その前後、死者の霊をとむらうために、サムインとい
う平和の火が焚かれた。その習慣はハローウィーンとしてスコットラン
ドに今も伝えられ、後にアメリカに渡り盛大な子供の行事となった。
* 原文注: この日には日本のお盆と同じようにローソクに火がともされ、
祖霊を迎え、まつり、そして送る。云々。
遠藤紀勝『仮面―ヨーロッパの祭りと年中行事―』現代教養文庫, 1990年。
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ハロウィーン Hallowe'en,Halloween >>関連項目一覧
もともとはケルト民族の祭り。ハロウィーンは英語読みで、ケルトの言葉ではサムハイン、サムインといった。名前の意味は「夏の終わり」。キリスト教では諸聖人の祝日の前夜(10月31日)の祭り(万聖節)。「Allhallow-even」(1556年の記述)、「Hallowmas "All-saints"」(1389年の記述)などがみえるようだ。
ケルトの暦では11月1日が新年であり、その前の10月31日、またはその前後に行われていた。死者を迎える火の祭り。死者の霊が帰ってくる時で、ごちそうなど用意してもてなし災いがふりかからないようにするのだという。死者が帰ってくる目印としてローソクに火をともした灯りを用意した。
また、死者の霊や魔女、悪霊たちが帰ってきてうろつき回り、悪さをする恐ろしい日。空が箒の柄にのった魔女でいっぱいになるという。
起源は古く、ローマ時代の幽鬼祭にはじまったという。現在でもスコットランドで伝統が受け継がれ、それがアメリカにも伝わり子供の行事となった。カボチャの提灯などを飾り、仮装した子供達が近所の家々を訪れ「Trick or Treat!」(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!)と言って、お菓子をもらう。(Treatは「扱う、遇する」の意で、「かまってくれなきゃ…」がこの場合は「お菓子をもらう」ことに)
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万聖節はローマの収穫祭(幽鬼祭)に始まったと伝えられる。降誕祭、聖母昇天祭(8月15日)とともにカトリックの三大祝日のひとつで、信徒はこの祝日のミサには何をおいても出席しなければならないとされた。
聖グレゴリウス1世 Gregorius I (在位590~604)は、古い宗教の祭儀のおこなわれた同じ場所に、教会を建てる命令を出して改宗を容易にしようと考えた。601年にカンタベリーのアウグスティヌス(?~604)に宛てた手紙の中でも、「そのような古い異教の祭りをやめさせるのではなく、それを祝う理由だけを異教のものからキリスト教のものに変え、それらが教会の典礼に適合するようにせよ」と命じ、古い宗教の祝祭をキリスト教の中に取り入れる方針をとった。
聖ボニファティウス4世 Bonifatius IV (在位608~615)は東ローマ皇帝フォカス Phokas (在位602~610)から、アグリッパが前27年に創建させたローマ神殿「パンテオン Pantheon 」を寄進された(実際は605年頃、教皇がフォカス帝にパンテオンを下賜されたいと申し入れた)。教皇はこれを聖母と殉教聖人たちに捧げ、サンタ・マリア・アド・マルティレス S. Maria ad Martyres (聖マリアと諸殉教者聖堂)という名前の教会にして、610年5月13日にその献堂式をおこなった。
聖グレゴリウス3世(在位731~741)が最初に万聖節を11月1日に聖ピエトロ聖堂で祝った。グレゴリウス4世は献堂の祝日を5月13日から11月1日に変更して、全教会が万聖節を祝うよう定めた。グレゴリウス4世の頃には、献堂の祝日におびただしい信徒が押しかけてくるようになり、ローマ中で食べ物が不足して満足に祝日をおこなうことができなくなってきていた。そのため穀物やブドウの採り入れが終わり、食料も豊富になっている11月にこの祝日を移動したのである。
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